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「あのよ」
湖に釣り糸を垂れてぼんやりと空を見上げていたヤム・クーに、背後から声がかかった。
「ああ、おはようございます」
「・・あよ」
眉間にしわを寄せた、アンジーはさもだるそうにあくびをしてヤムクーの隣りに来た。瓶の中を覗き込む。
「なんだ、空かよ」
「餌が悪ぃんですよ、新鮮なヤツは昨夜アンタらが全部食っちまった」
「・・そうだっけか・・」
「まだ目ェさめてませんか?」
ヤム・クーが笑った。

終戦だった。帝国が倒れて、共和国が成立するのだという。但しその条約はすべてビクトールを筆頭にする解放軍の幹部的メンバーが決めることであって、その配下の者にはまだほとんど現状が知らされていなかった。
アンジーは都より遠い地で残りの軍制を鎮圧していた最中に、決着がついた、ということを人づてに聞かされた。そして本拠地に戻ってきた時にはリーダー達の姿は既になく、他の同胞達は皆荷物をまとめていた。
本拠地は人が立ち退いた後も、長かった解放戦争の証として建物をそのまま残しておくことになったらしい。明日の晩には無人の砦となるのであろう岸壁をアンジーは見上げた。
空は晴れ渡っていて、一部の雲も見えない。見上げた顔に太陽の日差しがきつかった。
これから、というようなことを昨日から考えているような気がする。同室だった二人組の男のうち、一人は共和国の役職に就くことが決まっていた。もう一人は曖昧な返事を重ねるだけで何も語らない。
そうやって、皆三々五々に散っていくのが現状で、戦争が終わってしまえば解放軍という名の結束もこんなものかとアンジーは妙に乾いた気持ちになったものだった。
そんな時に、アンジーが一人でタイ・ホー達の部屋の扉を叩いたのは、別れの挨拶を告げる為だった。
タイ・ホーとヤム・クーには解放軍に参加するずっと以前から知り合っていた。二人は漁師と名乗って生きてはいるが、半ば堅気の道を踏み外しているようなところがある。博打の好きなタイ・ホーのせいなのかもしれないし、それを取り立ててとめようとはしないヤム・クーのせいなのかもしれない。だがとにかくそのせいもあって、商売をやめて湖賊と名乗りをあげてからも、二人はアンジー達と以前と変わらない態度で接した。そんなバランスが気兼ねなく付き合いやすいところで、アンジーとしては楽だったし、良い友人だと言うことが出来た。いわゆる悪友だろう。
「悪かったな」
アンジーが呟いた。
「何が?」
「いや、だから餌と・・ ・・昨夜のことな」
振り向いたヤム・クーの視線から目を逸らして、アンジーは軽く頭を掻いた。
タイ・ホー達を尋ねてきたアンジーは、妙に気恥ずかしいような寂しいような感傷的な気持ちも手伝って、挨拶をしたらすぐに帰るつもりでいたのだが、引き止められて、結局明け方近くまで飲んだ。アンジーは散々酔いの回ったところでタイ・ホーと何か口喧嘩をして、取っ組み合いになる寸前をヤム・クーに制止された。確か、フグは刺し身とから揚げのどちらが良いかとか、とても下らないことが原因だった気がする。終いには、まともに立てなくなっていたのでヤム・クーに肩を借りて自室まで戻ったのだ。年下だというのに、ヤム・クーは酒に強い。アンジーもけして酒に弱い方ではないのに、昨晩はどうも悪酔いをしてしまってヤム・クーに迷惑をかけてしまったと思う。
「ああ・・俺も酔ってたからな、覚えてませんよ、そんなの」
ヤム・クーは少し考えるような素振りを見せた後、そううそぶいて軽く笑った。

「これから・・」
ヤム・クーは言いかけて、あっと声を洩らし釣竿を引っ張った。アンジーも一瞬目を奪われる。釣り糸が水面から離れる瞬間、小さく水のしぶきが上がって、わずかな虹の色が浮かんですぐに消えた。
水面から引き上げられて青黒いものが光る。魚だと思ったのは、釣り糸に絡み付いていた水藻であった。
「・・ハズレ」
ヤム・クーは呟いて首を傾げた。水藻を手で取ってしまうと、それを湖に投げる。アンジーはその動作を目で追っていた。
質が悪いという練り餌を千切って新たに釣り針に刺しながら、ヤム・クーが言った。
「これから、どうするんですか?」
「ん?」
「これから、・・俺達はいちおカクに戻るつもりでいるんですけどね」
「ん、ああ・・」
どうだろうな、とアンジーは力無く呟いた。ヤム・クーが餌を付ける手を止めアンジーを振り向いた。その視線に動じたように、アンジーは苦笑いを浮かべてみせる。
「いや、娑婆に帰ったところでどうもこうもねぇしよ。前みたく商いやってんじゃねぇかな、やっぱり」
「じゃ元通りですか」
「多分な」
「じゃ湖賊は廃業ですか?」
「ったりめぇだろ、儲かりもしねえ」
「まさか。国が開けて、これからこの辺りは前よりずっと自由になる。それこそ稼ぎ時じゃねぇんですか」
きっぱりとそう言ったヤム・クーは、昔博徒をやっていた頃の面影を少し残すような悪っぽい笑みを浮かべた。普段は黙ってにこにこしているくせに、たまにそういう挙動があるので、伸びっぱなしになった前髪で隠れているヤム・クーの目にどうしても不敵な臭いを想像してしまう。
しかしそれは特に恐ろしいと感じる類のものではなかった。むしろ、気取ったところがなくて良いとアンジーは思う。
「商いだよ」
懐から取り出した煙草に火を付けながら、アンジーが言った。
「まぁ賊家業も気ままで良いけどよ・・いいじゃねえか、飽きたんだよ、もう」
「ああ、共和国に迷惑かけたくないんですね」
「・・っちいちうるせぇな、お前ェは相変わらず」
アンジーは少し口調を荒げた。ヤム・クーはくすくす笑っている。
「何時ごろ出発するんです?」
「ああ・・レオ達に船を取らしに行かせたんだ。アイツらが戻ってきたらその船で出るかなっと思ってるとこだけどよ・・」
そこでアンジーは言葉を切った。まだ今日顔を合わせていないタイ・ホーの事が気になっている。
「兄貴ならもうすぐ起きてきますよ」
アンジーの心を切り取って覗いたかのように、ヤム・クーはそう言った。考えを読まれたようで多少驚いたが、そうか、と呟いてアンジーは少し安心した。それにヤム・クーのそんな得体の知れない挙動もまたしばらくご無沙汰ということになるのであれば名残惜しい気がする。
ヤム・クーが、釣り糸をまた湖の方に投げこんだ。
「釣れンのかよ」
「さてね」
太陽の傾きからして、もうすぐ正午になる頃だった。カナック達が戻ってくるまでに、そう時間はないとアンジーは思った。

それから二度ヤム・クーが餌を取り換えた頃、ようやく掘っ立て小屋の御簾が開いて、中からタイ・ホーがのろのろと現れた。
すぐさま振り向きたい衝動を押さえて、アンジーは一拍待った。短くなった煙草を落として踏み潰し、すぅっと最後の煙を吐き出して胸を撫でる。
「・・おぅ、 ・・何時だ、今」
気だるそうな、タイ・ホーの低い声がした。
「おはようございます兄貴、そろそろ正午ですぜ」
釣り竿を側に置いて、ヤム・クーがタイ・ホーに答えた。そこでアンジーもゆっくりタイ・ホーの方を振り向いた。タイ・ホーはああ、だとかうめきながら、着物の裾を直していたが、アンジーを見るとばつが悪そうな顔をして笑った。
「よぅアンジー」
「・・よぅ」
ばつが悪いのはアンジーも同じことで、所在無さげに新しい煙草を取り出して口にくわえた。その動作を見ていたタイ・ホーが不意におい、とアンジーに呼びかける。
「どうしたよ、その傷」
急に冷静な表情になってタイ・ホーがアンジーに聞いた。アンジーの左手に目を凝らしている。相変わらず、飄々としているようで見るところは得ているものだと思いながら、アンジーは左拳を突き出してみせた。その手の甲に、四、五センチほどの浅い切り傷があるのをタイ・ホーは見逃していなかった。
「ああ、今朝契ったんだよ。同室の連中と。・・ホラ、あのいかつい旦那と目つきの悪いガキな。あれもよ、恐らくもう会うことはねぇだろーから、ま・・記念さ」
「随分痛そうな契りだな」
アンジーの左手を取ってしげしげと見つめ、タイ・ホーが顔を顰める。
「ああ、奴等のやり口は変わっててよ、こうやってな」
アンジーが右手の指を揃えて、左手の甲をサッと切る手真似をした。
「傷と傷を合わせるんだとよ。最初はちょっとビビったけどな。習慣だから仕方ねーな、こーゆーのは」
切り傷を軽く撫で、アンジーはあっけらかんと笑った。
アンジーはそういう場合、ひどく無邪気な顔を見せることがある。何にでも興味を示すし、探求心を忘れない。それが時には危険を顧みない行動に繋がることもしばしばあった。手の甲を切ると言われた時も、面白がって首を縦に振ったのだろうとタイ・ホーは想像した。
「お前のそういうとこはよ・・全く」
どうしようもないタイ・ホーの性分を笑い飛ばす時のヤム・クーのそれによく似た笑顔で、タイ・ホーも笑った。
それから間が持たずに、続けて口を開いたのはやはりタイ・ホーだった。
「・・で、これからどーすんだ」
タイ・ホーが聞いた。その調子があまりにヤム・クーと似ていて、アンジーは思わず吹き出した。続いてヤム・クーも口元を押さえる。タイ・ホーだけがきょとんとして首を傾げた。
「なんだよ?」
「なんでもねぇよ」
「なんでもねぇです」
タイ・ホーは訳が分からないという顔をしたが、悪戯っぽく笑うアンジーの額を小突いて、俺にも、と言った。アンジーはタイ・ホーに煙草を一本手渡した。
「ほら、火」
「おう」
アンジーが顔を寄せて、タイ・ホーの煙草に火を映した。静かに煙を吸い込むタイ・ホーの精悍な顔を見て、この男と空気を共にするのもこれでしばらく無いのだろうと思った。寂しいとは思わなかった。ただ、この時間を居心地の悪いものではないとだけ感じていた。
「・・なぁ」
顔を離したアンジーに、タイ・ホーが話し掛けた。
「何だよ」
「考えたんだけどな」
タイ・ホーはいつになく真面目な顔で、端で見ていたヤム・クーも何となくその言葉に耳を傾けた。
「やっぱりな、フグは刺し身だと思うんだよ」
そう言って、タイ・ホーはアンジーの目を見た。
「・・一遍死ぬか、てめえ!」
「あーもう止してくだせぇ・・」
アンジーの震える拳をヤム・クーが押さえた。タイ・ホーは一歩離れて、けらけらと笑っている。
「今度遊びに来たらな、嫌ってほど食わしてやるよ」
「いらねぇ世話だ、馬鹿野郎」
毒気づいて、アンジーは湖の方に目をやった。
「・・お前ェが下らねェことばっかり言いやがるから・・ほら、迎えがきちまった」
アンジーの視線の先に、レオナルドとカナックの操る船がゆっくりと岸に向かって来ていた。タイ・ホーとヤム・クーもその方向を見る。アンジーが湖に向かってタバコを投げて、続けてタイ・ホーも同じように煙草を放った。
じゅっと音がして、煙草が沈んでいくのを見届けてから、アンジーは振り返らずに船の方に歩き出した。
「じゃあな」
その後ろ姿にタイ・ホーが言葉を投げる。
「コラ待て、そこは「じゃあな」じゃなくて「またな」とか、そういうのだろうが」
「あーン?知るかよ」
そんなタイ・ホーの言葉にアンジーは軽く笑い、左手を上げて、最後の挨拶をした。後ろの方で、また会えますよね、というヤム・クーの声がしたのを聞いた。当たり前だろ、とタイ・ホーが返事をしたようだった。
天気の良い日だった。水面を伝ってくる爽快な風が煙草の臭いを吹き飛ばしてしまうようで、アンジーはそれを少しだけ憎く思った。
 
 
 

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