その日は、みんな随分酔っているようだった。
中でも、ヤム・クーは、僕が今まで見たこともないほど様子が変わっていた。とは言っても、他の皆のように騒いだり吐いたり寝ちゃったりするわけではなく、ただいつもと同じようににこにこと笑顔を見せたまま、ただいつもは白い肌が紅になっていた。
喧噪と酒臭い息に辟易した僕は、そんなヤムの隣に座って一息ついた。
「どうしたんです?疲れましたか?」
いつもと変わらない気さくな言葉だったけど、どこかゆるんだ口調に気付く。
ひどく酔っている。そう思ったとき、ちょっといたずらな考えが浮かんだ。
いつも、愛想の良いヤムだけど、自分自身のこととか過去にあったことはこれっぽっちも語った事がない。自分からはもちろん、聞いても何となくはぐらかされてしまう。
今だったら、ぺろっと喋っちゃうんじゃないのかな。
「ね、何か話してよ。」
大騒ぎしている人たちからちょっと離れただけなのに、僕と彼だけ、別の部屋にいるような、不思議な空気だった。心持ち屈んだヤムの耳元に話しかけると、彼はちょっと考えるふうだった。
「そうですねぇ。」
迷っているように、開け放たれた戸口から外を見る。本拠地である城の船着き場にはデュナン湖の水がせわしなく波打っている。だけど、痩せてきた月の光だけが照らすそこは、音を備えていない風景で、奇妙なほど静かだった。遠くの明かりが滲んでいる。霧が出てきたようだった。
「こんな晩には、決まって思い出す事があるんですよねぇ。・・・・・聞きたいですか?」
なんだかからかうような調子が半分ぐらい混じっていて、またやくたいもない昔話か何かで誤魔化されそうにも思ったけれど、聞きたくないと答えて何も話してもらえなくなるのも癪なので、黙って頷いた。
薄い色の前髪で隠された瞳がどこを見ているのかわからない…
…あれは、もう、随分前のコトになりますねぇ。まだアニキと会ってから、そんなに長くない。でももう今と変わらない間柄だったような気もする。
バクチ打ったり、ケンカしたり、まあときどきは船を出して…知らない所に行ってみたりね。まあ気まぐれな暮らしっぷりは、あのころから変わってませんけどね。
ある時…ふと汀(みぎわ)に出るとね。そいつがいたんですよ。
いや、それが何かって言われるとねぇ…実のところ、今でも何だかわからないんですけどね。
見た目は、子供でしたよ。抜けるように色の白い…妙なほど黒々とした髪を伸ばして、大きな眼をしててね。膝まで水に浸かってて…こっちをじっと見ていた。
俺は、何て言うのかな、おかしなモンでね。別にその時は変だとも思わず…ただその子供のそばへ行ったんですよ。魅入られた、って言葉がありますけどね。そんな感じかなぁ。で、何か話したような気もするし…何もしてなかったような気もする。覚えてないんですよ。どれくらいの時間が経ったか…後ろからアニキが呼ぶ声で我に返って、振り向くと、すげぇ形相でアニキが何か怒鳴ってる。
どうしたんですか?って聞くとね…いいから早く上がれ、って言う。で、自分を見ると、腰まで水に浸かってるわけです。
首を傾げながら、浜に上がってね。”死ぬ気か!”ってアニキが怒るもんだから、”今、子供と話してたんです”って言ったら、そんなモン見なかった、お前が一人で深みに向かっていただけだ、って…。
そんなことが数回続いて、とうとうアニキも尋常じゃないと思ったらしい。
物陰で俺を見張っていたらしいんですよ。
俺は…水辺に座って、月を見ていました。だいぶ欠けてたけど、佳い月でねぇ…。アニキに、水のそばに行くんじゃねぇって言われてたけど、我慢できなくてね。見てたんですよ。
そしたらね、またあの子供が来ました。その時には、もう人間じゃないなって感づいていた。でも、妙に愛おしい気持ちになるんですよ、一目見ると。
そばに行くと…そのとき、そいつは言いました。ああ、その時がはじめてじゃないのかも知れないですけど、俺が覚えているのは、その時と…最後に会った時、それだけです。
で、そいつが言うんですよ。
”一緒に、来てくれる?”って。
俺はもう、行きたい気持ちでいっぱいでしたね。他のことは、何にも考えられませんでした。そいつが俺の手を取る、水のように冷たくて、そして柔らかくてきもちいい感触でした。で、手を引かれて…そのまま水の中へ入っていく。この時は、自分でわかってました。水に入っていくってことが。
でも、全然怖くない。危険も感じない。ただ、このまま、行きたい…って、思いましたね。
その時。目の前を、何かがきらめきながら横切って、俺の目を覚ましました。
手を握っていたものの感触がすっと消え、かわりに、横にアニキが立っていることに気付きました。俺を見張っていて…それから後を付いて来てたんですよねぇ。そして、俺が何かに引っ張られているのに気付いて、めくら滅法で槍を振り回した、らしいです。
手応えがあった、と言ってました。さあ、どんな手応えだったかはねぇ…アニキに聞いてみないとわかりませんねぇ。
俺はと言えば…その時は魔法が解けたようにハッキリして、一緒に帰ったらしいんですけどね。次の日から、幽霊見たいになっちまった。ぼーっとして…何も喰えないし…やつれて死にそうになってたらしいです。いや、俺自身では、よく記憶にないんですけどね。ただ、あの子供のことを…考えていた、ということは覚えています。考えていたっていうより、頭のなかでぼーっと見ていたって言うか。
月の無い晩でした。新月だったってワケじゃなくて、雨だったかなぁ。真っ暗な夜でした。
俺は寝床でうつらうつらしてました。アニキは寝てたんだっけなぁ。
誰かが、小屋に入って来るんですよ。濡れた足音が、妙に元気なくてね。
俺は、あやしいとも思わなくて、ただどうしたのかなぁ、何で濡れてるのかなぁ。そう思って目を開けてみたんです。
枕元に、あの子供がいました。嬉しかったですねぇ。なんでかって…そうですね、好きだったんでしょうね、そいつのことが。妖し(あやかし)か幽霊かもわからないのに…そう、好きだった。
でも、気が付くとそいつ泣いてました。
”もう会えない…”とそれは言いました。どんな声かもわからない…ただそう言った。おかしいですね、でもそうなんですよ。
”ずっとあなたのこと、水の中から見ていたの。いつもいつも。”
”ごめんなさい。ただ、大好きだったから…一緒にいたかったから…”
言い終わると、手に持っていた何かを、俺に渡しました。包みを。
そこで、飛び起きました。そうです、夢だったんですよ。でもそうとも言い切れない、切ないくらいの現実感がありましてね。
辺りを、見回しました。するとね、床頭にあったんですよ。その、渡された包みがね…紙とも布ともつかないものに包まれた物が、そっと置いてありました。だから、俺、ああ来たんだな、と思いました。
それっきりです。
俺?俺は次の日から元通りになりましたよ。ああ、弱ってたから、元気になるまではアニキに迷惑かけましたけど。あいつのことは、滅多に思い出すこともなくなりましたね。
ただ、…今日みたいな晩にはねぇ。ふと、思い出すことがありますよ。どうなったのかなぁ、死んじまったかなぁ、ってね。いえ、もうそれぎり、呼ばれたりはしませんよ。
ふと、口を閉ざして、手にしたまま忘れていた盃の酒を、喉を鳴らして飲んだ。話しながら抜けてきた酒を補充するみたいに見えた。
…それで?
「え?ああ、その包みの中身ですか?その中にはね、大きな魚の前鰭と、銀色のウロコが一枚。」
ヤムは、手でこれくらいの、と、その大きさを示した。
「白っぽい灰色でね。付け根から、鋭い刃物で断ち切られていましたよ。この鰭は…きっとあの時、アニキが槍で切り落としたあいつの腕だったに違いない、とね。きれいだったなぁ。いい形だった…
あんな鰭を持った魚、見たことない…かわいそうに…」
しばらく声が途絶えた。眠ってしまったようだった。長い前髪に遮られた顔を盃の上に伏せているので、よく見えない。
と、彼が身じろぎをして、僕の方を見た。髪を透かして深い色の瞳が見え、僕を動揺させる…
ヤムはニヤリと笑って言った。
「どうです、ちょっとした怪談でしょう?」
「つ・作り話だったの?」
「いえ、本当の話ですよ。もちろん」
「じゃあ、その、魚の鰭どうしたの?まだ…持ってるの?」
僕は、何となく感動的な結末を期待していたんだろうと思う。作り話でもいい…でもそれなら作り話にふさわしい終わりってものがありそうなものだ。
「鰭?」
朦朧と、外に目をうつす。霧が濃くなったようで、月の明かりもわからない。
「ああ〜、それね。アニキがね。塩して焙って、酒の肴にね。」
「…食べちゃったの…?」
「まったくアニキらしいや…大事にしといてくれって、ちゃんと…頼んだのに…。旨かったぞ、なんて平気で言うんですからね。怒る気にもなりませんやね。」
絶対この話、作り話に決まってる。僕は、そう確信した。
ヤムは、本当に眠ってしまったようだった。重ねた手首の上に突っ伏して軽いいびきをかき始めた彼を見ながら、僕は怒るわけにもいかず、ただまだ終わらない小屋の中の喧噪を眺めていた。
そして、ふと視線を落としたとき、僕はそれを見つけた。
ヤムの首に掛けられた細い鎖、その先に銀色に輝く丸みを帯びた何か。
彼の上に屈み込んで、確かめた。
淡い銀白色をした、大きな魚のウロコだった。
(おわり) |