月下の笛
お前は貪欲だ、と言われたことがある。
己が無欲であるというつもりはなかったが、唐突に言われたその言葉には納得しかねるものがあった。
なぜ?
問い返された相手は、かすかに嗤う。
お前、気に入ったものは全て自分のものにしたいんだろ。
それがどうして?だって、普通の人間はみんなそう思っているんじゃないのか。
俺は違う。
唇は皮肉に歪んだままだが、もう嗤ってはいない。
俺は違う。俺は何も手に入れたくは無い。
どこへ行く…?
彼は自分に、そう語りかける事が多くなっていた。行く先の決まっている旅の途上でも、目的地に着いて船荷を解いている最中でも、胸の中の同じ場所でちりちりと灼けている問いだった。
どこへ行きたい?
アンジーは、いつもその問いに、質問を重ねることで応えていた。俺はどこへ行くのだろう。俺はどこへ行きたいのだろう…。以前には、考えて見ようとも思わなかった問いが、しかも答えの見つからない問いが、執拗に居座ることに、いつか耐えられなくなる時が来るのではないかと漠然と想像しながら、それでもただ己に問うことしかできないでいた。
野望が消えてしまったわけではない。商人としての…一人前の男としての成功、あるいはおのれの望むものを手に入れる生き方、それは彼の中で変わらずに燃えている。部下や雇人たちに対する責任といったものも、それを背負っていると考えるのは疲れることだったが、彼はそれが嫌いではなかった。頼られることも、支配することも、彼の欲望を喜ばせる。充実し、満足しているべき今だった。
それなのに。
たった数ヶ月の間に、何もかもが色あせてしまったかのようだった。
暗い時代だと思っていたのに、過ぎ去った苦い過去が、実は鮮明に彩られていたような気さえした。それが幻想だとは分かっていても、過ぎ去った日々への憧憬を、彼は捨てることが出来なかった。
とうに春を迎えていた首都の風は、あたたかく甘かった。街を行く人々の身なりも相応に軽く、明るい。それは、季節のためだけではなかっただろう。
その中を、アンジーは一人、重い上着の裾を翻らせながら渡っていった。水の深みの色をしたそれは、奇妙なほど春の街には不似合いな気がした。
彼は、何度来ても好きにはなれない街と、煩雑な手続きに疲れ果てていた。
山道を歩くには、湖風を防ぐように仕立てられたそのいでたちは暑すぎた。長い上衣を左肩に、右の袖口で目に滲みる汗を拭う。
首都での重要な事務仕事を投げ出すようにして、無理矢理作った休暇だった。
重苦しい枷を取り払ったように身の軽さを感じていたのは、最初だけだった。時間が経つにつれ、妙に心細く、頼りなくなってくる。子供が一人で道に迷うのにも似た不安感が汗に重くなった肌着のようにまとわりついてくる。
気がつくと仕事のことを思い巡らせていたりして、その度にアンジーは頭を振ってそれを追い出した。仕事のことは忘れなければ、と義務的に思う自分が可笑しかった。だが笑ってみても、仕事のことを思うのは何故か正しくないような気がしていた。
人に会いに行ってくる、と伝えた時の、レオナルドの表情を思い出す。
落ち着かない様子のアンジーを心配顔で見ていた年上の部下は、ああ、そういうことだったのか、という笑いで頷いていた。その意味ありげな笑いを否定するでもなく発ってきた彼の心中は、しかし、おのれでも不可解な衝動への疑問でいっぱいだった。
急ぐ理由など無いはずだった。
ゆっくり歩を進めようと、何度もおのれに言い聞かせた。それでも早くなっていく足運びに腹が立つ。落ち着いて歩く事も出来なくなるほどせわしない毎日を送っていたのだろうか。
山は一年の中でも緑の美しい佳い季節だったが、アンジーはそれに目を配る余裕もなく、目には映っても心で捉える余裕なく、ただ足を動かし続けた。
拭うことを諦めた汗は、途切れる事無く肌の上を伝う。その内側では堪え難いほどの熱気がこもっていたけれども、彼はもうゆっくり歩こうともしなかった。
何も考えることなく、ただ歩むに任せている…そうしようとしているのに、脳裏には忘れがたいあの時の風景が何度も何度も繰り返し映っていた。驚かされることでもなく、取りわけて印象的だったわけでもなかったあの時の記憶が。
何故…それほどまでに気が逸るのかわからない。最後に姿を見てから、幾月も経っている。便り一つなく、あるべき仲だったわけでもない。
親しい、と言う間柄でもなかった。言葉を交わした事も、数えられるほどの回数しかなかった。
思い出すまでは、忘れていたとさえ言ってもよかった。
ただ…
思いは幾度も同じ記憶の上に落ちる。
あの晩、交わした言葉が、いつまでも耳の奥に響いている。