本拠地、と呼ばれる城に住み始めた頃は、かつての縄張り意識のようなものがそれぞれの集団ごとにあり、よそよそしい付き合い方しか出来なかったが、時間が経ち、戦場で共に戦う回数を重ねると、彼らの間にも連帯感が生まれる。特に、山賊と湖賊は起居の場も隣接していたし、かつての仕事の内容にも共通点が多かった。
 夜毎の酒盛りには、やがて両者の間の隔てが無くなっていた。
 最初、その男は相棒の大男の影に隠れる影のようだった。挨拶を求められても、口を歪めて横を向く。酒盛りの最中でも声を聞いたことがない。いつでも、頬に辛辣な笑みを張りつけたままで無言だった。
 皿をのぞき込んでも、ほとんど手がつけられていない。だが、すすめられる酒だけは呑んでいるようだった。華奢で、無駄な肉のほとんど付いていないその容姿も併せて、どこか仙人めいた様子さえあった。
 誰もが、どう接したらよいのか分からないままでいた。当人だけが、周囲の戸惑いをよそに、己の在り場所を勝手に定めているようだった。
 そして、誰もが彼を気にかけないようになった。無視、というのとは少し違う。ただ、在ることを、自然と周囲に納得させている。不思議な男だった。
 
 あれは、いつ頃のことだったろうか。
 月の良い晩に、城の外で、皆で飲んだ事があった。月は大きく欠けてはいたが皎々と光っていたし、城の外壁から突き出した大樹の枝ぶり、対岸の漁り火、そのどれもが美しく見える晩だった。
 にぎやかに始まった宴も、時が経つに連れ、誰もが言葉少なくなっていた。時折、ふと人声がとぎれ、風の音だけになる。
 そのとき…遠くから運ばれる波の音と、葉ずれの音に混じって、高い音が流れてきた。
 皆がそれを笛の音と気付くより先に、彼はそれが高い木の上から来るものであることに気付いていた。
 半ば以上濃く茂った葉の中に埋め、薄橙色の衣服をまとった小柄な姿が、月明かりにぼんやり見えた。
 風に運ばれて時折届かなくなってしまうほどかすかな、たかく澄んだ音色が、なめらかな旋律を奏でるのを聞いた。
 その細い調べに流されるように、緋の腰紐がゆるやかになびいているのがわかった。

 静かに、溶けるように笛の音が絶えていった。
 皆がまた、同じように騒ぎ始めてからも、彼はその音が忘れられずにいた。いや、忘れられないと言うのではない。耳の中で同じ音色が繰り返し鳴っているのだった。
 座からそっと抜けだし、人気の無い暗がりで、酒気と熱を含んだ息を吐く。少し距離を置いただけで、あの喧噪が嘘のように遠かった。風の音と闇の冷たさが心地よかった。
 アンジーは、城壁にそって暗がりを歩き始めた。月が古城にかくれ、星々の光も吸い込んで見える黒い湖面は、彼の想像の中だけで波打っている。
 と、つま先の低い位置で、何かが動く気配を感じ、ぎょっとして立ち竦んだ。
 それは、ゆっくりと伸び上がり、人の形になった。誰かがうずくまっていたのか、と気付くと、酔いが醒めるほど驚いた自分の小心さが腹立たしい。
 人影が、砂利を踏む音とともに、かすかに嗤う低い声を漏らしたことに気づき、心中を見透かされたような嫌な気分になった。
 「誰だ、お前」
 不愉快そうな彼の声に怯む様子もなく、人影はすっと寄ってくる。かすかな星明かりが、人影の顔をおぼろげに照らす。それは、つい先刻、木の上で清澄な音を響かせていた、あの男だった。
 顔と名前くらいは知っていた。小柄で華奢そうな外観だったが、どこだかの山で野盗の頭だとか何とかで、現在も副頭領格だった、ような気がする。特殊能力があるとかいう噂もあったようだが、自分の目で確かめたことは無い。
 アンジーは、ゆっくりと城壁にもたれかかった。「いい音だった」とか、「上手いな」とか、しっくりくる言葉を探してみたものの、それらしいものを拾い上げることができずに、苦い気分になって、ただ短く「聞いたぜ」とだけ言った。
 答えは無い。
 忍び笑いを洩らして男が微かに立ち位置を変えると、遠くの松明の光がその上に落ちて闇の中に浮かび上がらせた。
 削り落としたような頬や細く固い線で描かれた面差しよりも、痛々しいほどの薄い胸が気になった。
 「お前、なんで山賊なんぞになったんだ?」
 思わず口に出していたが、独り言のようなものだった。が、風の通り過ぎるだけの間をおいて、低い声が答えが帰ってきた。
 「生きるのに、一番楽だった。」
 驚いたのは、多分、相手が返事をするような者ではないと、漠然と決めつけていたためだろう。振り向くと、相手が薄い唇を吊り上げるようにしてにたりと笑ったのが見えた。からかわれていたのだろうか。
 「楽したくて、か?…全く、たいした怠け者だぜ」
 それが嘘だと十分に理解していながら、思わずそう言った。
 バルカスを頭領に頂いていた山賊たちは、曲がりなりにも「義賊」を標榜していたのだし、伝え聞く彼らのやり方は、旅の商人から掠め取る夜盗とは違って楽なものではなかったはずだ。
 目の前にいる男の無駄な肉のひとかけもついていない体は、それなりに精悍であるとも言えたが、それでも戦いの場では圧倒的に不利だということは想像がついた。

 視線を感じて顔を上げると、ひた、と褐色の瞳がこちらに据えられていた。睨んでいるのとは違う。凝視、でもない。ただ、子供や動物が、何か興味深いものを発見したときのものに似ている。その目に捉えられ、逸らせない。見入った目の色がただの褐色ではなく、惑うような緑色が溶けているのを見た瞬間、相手はふいと視線をそらした。急に、興味が全く消え失せてしまったようだった。
 無くなってはじめて、アンジーはその視線に緊張させられていたことに気付いた。無意識に握り締めていた手のひらに、薄く汗をかいている。

 湖から柔らかい夜の風が吹いてきて、男の長い髪とアンジーの長着の裾を揺らしていった。それだけでなく、風は男の痩せた身体と幾分大きめな服の間を通り過ぎ、そして男の体臭を運んできた。その獣的な匂いに、アンジーははじめて自分と相手の距離を意識した。
 猫だ、と口の中で呟いた。目も、動きも、獣じみた匂いも、何時の間にかそばにいてそれを気づかせないことも、…多分、鋭い爪を持っているだろうことも。

 不意に、男が口を開いた。
 「じゃあ、あんたは何で湖賊なんかになったんだ?」
 アンジーは動揺した。
 何年も前、家を出るときに、家族から投げかけられて以来なかった問いかけ、「あんたはいかにも湖賊の頭領に相応しい」とは言われても、ほとんど言われたことのなかった問いかけだった。
 そのせいだろうか。彼は夢中になってそのわけを喋り捲ったのだった。
 具体的に何を言ったのかはよく覚えていない。
 帝国の腐敗っぷりがどうだとか、どんなに多くの人々が苦しんでいるか、とか…はては己の貿易商としての野心までも語っていたような気がする。
 まるで、あの時に父親に話したときのように。
 そう、それは言い訳じみていて、自分でも恥ずかしいと思うのだが、口からほとばしる言葉をどうしてもとめることができなかった。いい加減に濁したいと思うほど、余計なことまで言っているのだった。

 長い話の間、男は何一つ聞いていないのではないかというほどの無反応振りでいた。が、全て話し終わり、まだ頬を紅潮させている彼に、こう言ったのだった。
 お前は欲張りだ、と。