山道がふいに広くなり、人の手の入った開けた場所になる。少し奥まって、粗末な小屋にしか見えない建物があり、何やら記した小さな布が掲げられ翻っている。国境を越える旅人を相手にした茶屋か宿屋らしい。
  近寄ってみると思ったよりも大きく、清潔だった。時間のせいかそれともいつもこうなのか、ほとんど客らしい者の姿は見えなかった。
  道に面して出された木の台が軋るほどの勢いで腰を下ろす。弾んだ息が収まるまで、身動ぎ一つせずにいた。こんなに鈍っていたのかと驚くほど、身体が疲れていた。国境はもう目と鼻の先だったから、飯でもないだろうかと思ったが、何となく軽い食事と酒を頼んでしまい、諦めて食い始めた。
  さっきまではあれほどまでに心が急いていたのに、今更のように気後れしていた。そのせいか、いつもは早食いの彼の食事は、一向に進まなかった。腹は減っているはずなのに、食べる意欲が沸いてこなかった。ひとくちづつ口に押し込んでは、酒で呑み込んだ。それでも途中で嫌気が差し、最後には皿に残った肉を睨みながら酒だけを口に運んでいた。

  皿を下げに来た茶屋の主人らしい男に、国境警備隊のことを尋ねてみた。
  「ああ、そりゃあいい方々ですよ。さすが新しい共和国の役人さんは違うって、商売の方々も口を揃えてますねえ。」
  主人は屈託のない口調で言った。
  「なんでも、隊長の方は、この前まで解放軍に参加されてた方だっていうし…頼もしいことです。」
  アンジーはぼんやりバルカスの顔を思い出した。一見豪放な男だったが、付き合ってみると意外と几帳面で、大きな組織の中では損をする種類の人間だろう。彼が国境警備の職を勧められた時には、周囲では釈然としない思いを抱いた者も多かったようだ。しかしアンジーは「上の人間はさすがによくわかっているな」と思ったものだった。多分、バルカス本人も、自分というものを正しく把握していたのだろう。
  「時折、このあたりにもお見えになりますよ。」
  アンジーはふと顔を上げた。
  「へえ、じゃあ、一緒に小せえ男が一緒にいたろ?ちょっとだらしのねえ感じで、愛想のねえ…」
  あいつが役人をやっていたら、普通の人間の目にはどう映るだろうか…想像し思わず口元を緩めながら尋ねた。が、主人はちょっと首を傾げて、眉を寄せた。
  「さあて…小柄な方ねえ?」
  「ああ、小さくて細っこくて、髪の黒い…」
  服装は、と言いかけて、まさかまだ同じ服は着ていないだろうと思い当たる。すると、あの男を説明する言葉がさっぱり出て来ない。
  「いや…気付きませんでした。お客さんのお知り合いで?」
  まあな、などと呟いて、アンジーは酒の残りを飲み干した。
  多分、役人と言うにはあまりに貧相だったから、この主人の目にも止まらなかったのだろう…そう思うと、笑いがこみあげて来た。
  不審そうな面持ちの主人を前に、アンジーは声を出して笑ってみた。何のために会いに来たのか、とか、顔を合わせた時に何と言ったらいいのか、といった迷い躊躇いが薄らいでいった。
  銭を置き、主人に礼を言うと、彼はまた勢いよく腰を上げた。国境守備隊の砦はすぐ間近に見えていた。

  取次ぎの兵卒と入れ違いに出てきたバルカスは、ひどく驚いた様子でアンジーを迎え入れた。
  商売で来たのか、とか、一人か、とかいう他愛のない質問のあとで、バルカスはアンジーを奥へと導いた。
  あの男の名前を上げて訊ねると、相手はちょっと口を引き結ぶようにしてから、「いねえ」とだけ答えた。
  「…え?」
  「ここに来る前に、ふいっといなくなっちまった…それっきりだ。」
  なぜ、と思うより、ああ、やっぱりな、という思いが先に来た。驚きとか失望とかは感じなかった。ただ、濡れるような疲労感がじんわりと肩から降りてきただけだった。
  「あいつに、会いに来たのか?」
  肯定も否定もできず、ただ黙っていた。
  バルカスも、そんなアンジーを見て何も言わなかった。
  その晩、二人は向かい合って呑んだ。
  遠まわしに共通の知人の消息などを交換した。どちらもしばらくはあの男の話題を避けていた。
  酔いも十分に回り、何を言っても「覚えてない」で済むようになったころ、
  「おれもずいぶん考えたさ」
  いかつい顔を顰め、唸るようにバルカスが言った。唐突な台詞だったが、アンジーの酔った頭にもそれが何の話かはすぐにわかった。
  「やつが行っちまう理由はいくらでもあるような気もしたし…何も無くても行くときには行っちまう男だって気もした…。だがこっちはさっぱり納得いかねえ。」
  やり場のない感情が滲んでいた。
  アンジーは胸元を押さえた。いつものあの部分が、じりじりと灼けている気がした。
  あいつは一人で行ってしまった。どこかへ。
  どこへ?
  俺はあいつを羨んでいるのだろうか。あいつを妬んでいるのだろうか。
  だが、俺にはどこにも行くことはできない…。あいつの言ったとおり、俺は欲張りだからだ。何も捨てることはできない。失っても失っても、また何かを掴んでいなくてはいられねえ。
  だがあいつは…本当にあいつは、何も望まないのだろうか。しがみつきたくなるものはないのだろうか。

  一度だけ、こう言ったことがある。バルカスがつぶやいた。
  なんで、そんなに手に入れたがるんだろうな、と。手にしたものは、いつかその手から失われるに決まっているじゃないか、と。
  そうして、笑ったのだと。
  「失いたくないから…手に入れたくない、のか」
  バルカスが黙って立ち上がり、明り取りの引き戸をからりと開けた。温もりと冷気を混ぜ合わせた春の宵の空気が、細く流れ込んできた。酒臭い澱んだ空気をわずかに掻き混ぜたが、すぐに溶けて消えた。
  四角く切り取られた紺色の空に、くっきりと丸い月が掛かっていたが、妙に遠くに見え、なんだかよそよそしかった。
  あの時の笛の音色は、耳に思い出すほど鮮明に覚えているのに、確かに聞いたはずの素朴な旋律がどんなものだったのか少しも思い出せないのが歯がゆかった。
  「馬鹿野郎。一番欲張りなのはお前の方じゃねえか。」
  アンジーは月に向かって毒づいたが、むろん月は、何も答えようとはしなかった。

<終>

 

えとー、これは名前の一ぺんも出なかった「彼」が書きたかったものです。
ホントはあっちの部屋に置こうかと思ってたんですが…
名前が一度も出ないんじゃあなあ…。(笑)
わりと彼を気に入り始めた初期に考えた話だったりします。
笛吹きシーン、イラストに付けた文章だったりします。
そのシーンと、冒頭の台詞と、最後のアンジーの台詞だけが最初からあって、
それだけのために書いたみたいな。

イラストはこちら

んで…文章のスタイルとして目指してるのは
「必要な事項をできるだけ簡潔な文章で記述する」事なんですが…
いやなかなか(汗)
必要最低事項の線引きがまずできません。
どこまで説明して、どこから読者に想像してもらうのがいいか、
というところですか…。
出来ればくどくど説明したくないのだが、
かと言って描写しないとわかってもらえないだろうし…
というわけで、書いたり削ったりいろいろやっているうちに面倒になって
「えいや」と上げてしまうことが多いんですが…
いけませんよねそれじゃあ(反省)。

後になると「ああ〜アンジーの苛立ちの部分もっと書きこみたかった〜」とか、
「シドニアが出て行った理由はこれだけじゃないのよ〜(マイ設定的に)」とか
いろいろあるのですが…
まあ機会があったら書いて見たいですねえ〜(←書けないという意味の婉曲表現)